『理想的な休日の過ごし方』解説


「雲について」


 ああ、また、あの雲だ。

 巨大な、青空を通過しつづける雲の連なり。甲子園のポスターに写っている、あの誇らしい真夏の雲ではなく。
  今にもまして、金も実力もなく、無限とも思われる時間だけがあった学生時代。当時の私にとって、雲は貧困と無為の象徴だった。輪郭が蒸発し、くずれてゆっ くりと溶けながれ、全体がかたちを変え続けているのに気づく。入道雲、スジ雲、鰯雲、羊雲、かすみ雲。飛行機雲。雲には名前がついていた。長く長く、それ を見ていると……それは本当に長い時間だった。
 『理想的な休日の過ごし方』のファースト・カットは、晴れわたった空に浮かぶ雲の塊だ。主人公はそれをただ眺めている、もう若くもない女。雲と女のあいだに流れている、ゆるい、ぼんやりした、所在ない、しかしリラックスした…というよりはどこか不安げな時間は、そのままこの映画の骨になっている。つまり「休日」、それも終わりの見えない休日の繰り返しだ。そして、物語は主人公をひたす無為の休日が終わってゆく過程でもある。
  彼 女には幾度も、思わぬタイミングで「頼まれごと」と「打ち明け話」がふりかかる。たまたま珍妙な外国人に前を通りかかられたおかげで大げさな詐欺事件に巻 き込まれ、いまだ喪の明けない倦んだ場末のカフェへ連れ去られる。すれちがったかつての友人は、自らの手で夫を撲殺している…それはいささか容赦ないと思 えるほどの強引さだ。
  彼 女はそれをまるごと受け入れていく。というよりもそうした他者の「休日の過ごし方」に乗って街のあちこちをあてどなくさまよってゆく。彼女はこの休日の 「過ごし方」を持っていないからだ。そして、何よりも「過ごし方」に飢えているのだろう。そうしたもどかしさ、「暇つぶしに忙しい」、あの豊穣な無為に、 わたしたちの多くは「若者」と呼ばれるあの曖昧な時期に、すでにとり憑かれているかも知れない。だからこの作品はある種の青春映画の一面を匂わせてもい る。一足ふた足遅れてきた青春ではあるだろうけれども。
  やるせなく、時間だけが過ぎ、だからこそ空転し、終わりがない生あたたかな日々。そうした「日常感」のきわまるところは、つげ義春や坂柱いみりのコミック に描かれているように、現実と幻を混濁させる。たとえば「名前」だ。「ジョン万次郎と私」という、実にチープで、だからこそ超越的になりうる偶像とか、 「ジョセフィーヌ」という意味不明な友人とか…他にもちょっとした語法やロケーションの選び方などに現実の誤変換とでもいいたくなる、あくまで微妙な違和 感がしつこくしつこく配され、そうした細部が景色をみるレンズを徐々に歪ませてゆき、堆積したストレスが現実と近くて遠い、いわば「まがいもの」の緻密さ をみせつけている。この陰湿ともいえる微差のデザインこそが松本散歩の作品の骨頂であり、観客にとってはもっとも大きなハードルかも知れない。
  そ して小さな誤差は気づかずのうちに、ゆるゆると、現実からすればあまりに大きな狂いに届いている。それはひとことでいえば、この作品の徹底的といえる「決 まらなさ」だ。詐欺も、外国人も同性愛者も、愛する者の喪失も、夫殺しすらも、この作品ではそれぞれの出来事にまつわる社会的なバイアスを失って、奇妙に おだやかである。ゆるやかに溶けあうように、それが善くも悪くもなく、楽しくも悲しくもないかのように。だからこの作品のなかで起こっているのは、もはや 日常でも事件でもなく、「それが何事であるか」を取り決める基準の崩壊だ。松本の作風に照らして言えば、基準の「お休み」というところだろうか。正常も異常も、意識も夢も、暴力も癒しも、愛も不毛も判然しない、世界をつかさどるあらゆる基準が「お休みの日」。
  それが「理想的な休日」ということなのだろうか。自らの形を変えて流れ続け、いつしか巨大に膨れ上がる雲はそのシンボルだ。その存在はただ単なる回答であり同時に謎である。見上げるしかない謎が空を滑ってゆく。『理想的な休日の過ごし方』を透徹しているのは、もしかして「雲」からのまなざしか も知れない。あまねく人間はその視線に見下ろされ、営みはこまごまと、ぼんやりと、おだやかに繰り返される。ちょっと離人症的である。けれど、誰でも一度 はそんな雲との時間をもったことがあるのではないか。その時間から広がってゆくミステリアスというにはあまりに「キマらない」物語を、やはり松本も雲の下 で夢想したのではなかったか…
  なぜ、そう思うか。私が、彼の作品に出演したことがあるからである。

  2005年、冬。今にもまして、金も実力もなく、無限とも思われる時間だけがあった学生時代。
 松本散歩の卒業制作『人情回路』にただひとり出演していた私は、緑色のジャージを衣装に着せられて、加茂川の小高い岸に立って、空を見続けている。
  松本のカメラがじっと私をとらえていた。彼からの指示は「雲を見て」とだけ。
  当時の私たちにとって、雲は貧困と無為の象徴だった。
 …もう5分は経つ。まだカットはかからない。もう演技しているのか、ただ立っているのかわからない、気が遠くなってくる。
  彼は一体、何を撮ろうとしているのか…
 …もう10分は経つ。雲が流れてゆく。その輪郭。とどまらない形…長く長く、それを見ていると……それは本当に長い時間だった。
  それから5年が経つ。

  2010年、夏。
  『理想的な休日の過ごし方』、ファースト・カット。

 …ああ、「また」、あの雲だ。




(『人情回路』は、身の回りが徐々に「消えてゆく」世界で、男がひとり、とりのこされながら、おぼろげな街をカメラにおさめてゆく映画だった。ドキュメントでもなく、寓話的にもならない、退屈と無為と色あせた風景のなかの日々、という舞台と、世界へのまなざしは今作ととてもよく似ている。大きく違うのは、今作では、主人公がその日々を「みずから終わらせる」ところだ。)

『人情回路』はyoutubeで見ることができます。
ぜひどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=jzNKX48uYLE




(袮津悠紀  文筆家・作家)